「文筆家の生活を支えるのは、出版社」らしい

日本文藝家協会が11月7日付で4件のパブリックコメントを公開している。

2008/11/07
内閣官房知的財産戦略推進事務局 
デジタル・ネット時代における知財制度専門調査会報告案に関する意見募集

?.権利制限の一般規定(日本版フェアユース規定)の導入

        に関するパブリックコメント
2008/11/07
文化庁文化審議会著作権分科会法制問題小委員会
平成20年度・中間まとめ

第4節 研究開発における情報利用の円滑化について

        に関するパブリックコメント
2008/11/07
文化庁文化審議会著作権分科会
過去の著作物等の保護と利用に関する小委員会

○中間整理

第3章 保護期間の在り方について

        に関するパブリックコメント
2008/11/07
文化庁文化審議会著作権分科会
過去の著作物等の保護と利用に関する小委員会 

○中間整理

[http://www.bungeika.or.jp/pdf/200811pubcom2_4.pdf:title=「第2章 過去の著作物等の利用の円滑化方策について」の
「第4節 次代の文化の土台となるアーカイブの円滑化について」]
        に関するパブリックコメント

日本文藝家協会声明文

どんな意見を出すのも自由だし、それぞれの立場や考えから意見を出すことは当然だと思う。
でも、一つどうしても気になるというか、そんな考えでいいの? と思うものがあった。
それは、「過去の著作物等の保護と利用に関する小委員会」の中間整理への意見。
アーカイブの円滑化への反対というか慎重論の意見だが、それ自体については問わない。
自分が気になったのはその反対理由の2。

文筆家の生活を支えているのは、出版社であります。良書であれば小部数であっても出版し社会に送りだすことによって、多くの作家が生まれ育つ環境ができます。国会図書館以外での閲覧を可能にすることは、出版社そのものの経済基盤を侵すものであり、出版文化そのものの危機で、ひいては文筆家の生活の屋台骨を大きく揺るがすこととなります。

(強調:引用者)

http://www.bungeika.or.jp/pdf/200811pubcom2_4.pdf

「文筆家の生活を支えているのは、出版社」ってことを文藝家協会の意見として出している点がどうしても引っかかる。
自分も会社員であり、会社の給料で生活している。だから自分の生活を支えているのは会社だ、と言えるのかもしれない。でも、自分は自分の労働の対価として給料をもらっているのであって、会社にすべてを捧げているとは思っていない。だから、自分の生活を支えているのは会社だ、と言うことを公言するのにはためらいがある。*1
文藝家協会が「文筆家の生活を支えているのは、出版社」と主張する時に、自分たちの収入・原稿料は自分たちが書いた原稿に対する対価である、とか、自分の収入・原稿料は自分の手で稼いだものだ、という自負はあるのだろうか。逆に言うと、自分たちが書いた原稿は、その原稿料に値するだけのものである、という自負はあるのだろうか。
出版社に生活を支えられている、という書き方では、私にはその自負は感じることはできない。*2
そして、自分たちの生活の屋台骨を守るために、出版社の経済基盤を侵すべきではない、と主張*3は、文藝家協会は出版社の利益のために主張をしている、と私には見えてしまう。

もしかしたら、会員の中にはそのような考えに同意していない人がいるのかもしれないが、協会名義で意見を出しているのだから、協会の総意に基づいて出されていると、とらえるしかない。


「出版社によって生活を支えられている」と主張している文藝家協会には、文藝家協会に属する人には、今後著作権の議論において「リスペクト」という言葉を発して欲しくない。「リスペクト」を口にするのであれば、自分の生活は自分の力で支えているんだ、という自負は最低限持っていてもらいたいと思う。*4

*1:私はバブル入社世代で、就職に苦労をしていないので、そう考えるのかもしれないが。

*2:出版社がパトロンだ、という考えなのかもしれないが

*3:私は、アーカイブ推進が出版社の経営基盤を侵すものとは考えていないが、それは置いておく。

*4:その点では、松本零士氏は「リスペクト」を語る資格はあるのかもしれない。