引用について考える

上記の対論の中で、東氏が次のように述べています。

本来、著作物というのは批評するのも引用するのも自由なはずであるが、パッケージを破った事典で、「批評目的での引用はしない」ことに同意した、とみなされるようになるかもしれない。あり得ない話のように思えるかもしれないけれど、マンガやアニメは、慣習的にそれに近い状態になっています。評論目的というと、画像を貸してくれないことがある。映画もそうだという話ですよね。それがあらゆる本にまで拡大したら、どうなってしまうのか。

この部分を読んで、最近読んだ藤津亮太氏の「「アニメ評論家」宣言」を思い出した。

アニメ「評論家」宣言

アニメ「評論家」宣言

同書の275p.で藤津氏は次のように述べている。

映画やアニメの場合、評論の文中に画像を「引用」することは現状、認められていない。この「引用」が乱用されると、権利者の権利が阻害されやすいということは想像がつくので、やむをえないとは思う。
<中略>
しかし「画像」が自由に使えないために、カメラワークや色指定など、言語で表現することに限界のあるテーマを実証的に扱おうとする場合、ハードルが非常に高くなってしまい、評論の扱える範囲が狭められているというのもまた事実だ。

言うまでもなく、著作権法32条の範囲においては「引用」は「無断」で行うことができる。だから、本来ならこのような画像の「引用」で悩む必要は無いはずだ。しかし、現実問題としてその「画像」を入手する手段が限られて場合、「無断」では行えないこともあるのだろう。
マンガにおいては、「ゴーマニズム宣言」訴訟や夏目房之介氏の活動により、「引用」は自由に行えることが定着してきているように思えるが、まだまだ許可を取って「引用」しているケースもある。「マンガの社会学」という本では全て許可を取って「引用」したようである。

マンガの社会学

マンガの社会学

同書の第2章の付記で、その章の筆者のヨコタ村上孝之氏が、許諾を得られなかった事情を述べている。

 本章第三節では、原稿段階で、石森のはじめた、視点の移動を伴う映画的手法の例として、あるマンガ家が少女漫画誌に一九六〇年代前半にはっぴょうした作品を挙げていた。このカットの引用の許可を求めるさいに、作者の夫であり、またある時期に共同制作者でもあったマンガ家から、当該作品が石森の影響を受けているという論旨に納得できないというクレームが入った。数度にわたる交渉のすえ、カットの使用を許可できないということはもとより、当該作品に関する言及をすべて削除するというはこびになった。

「引用」に許諾が必要となると、このように被引用者の意向が引用者を縛ることになってしまい、引用する側が自分の言いたいことが言えなくなる、ということが生じてしまう。自由な批評・評論活動が行うことができないことは、回り回って、そのジャンルの衰退につながるのではないかと思うのだが。
「知的財産戦略会議」もアニメやマンガを日本の重要なコンテンツとして売り出そうとするのなら、自由な批評・評論が行えるように、「引用」が自由にできる環境を整備すると言った提言をすべきなのではないか。
なお「サイバージャーナリズム論」(isbn:4501620307)のp.137-141では、動画の引用について考察している。これも併せて読んで欲しい。