著作権の及ぶ範囲はもともと曖昧だ

先日設立された「ネットワーク流通と著作権制度協議会」。
PC Onlineの記事を読む限りにおいては、日本版フェアユースの導入に反対というか慎重なスタンスの団体のようだ。
記事中にフェアユースに対する慎重な意見がいくつか書かれているが、理事で弁護士の伊藤真氏の発言の中に、そんなのフェアユースがあってもなくても起こりうる懸念がある。

フェアユースと到底思えない事例を『これはフェアユースだ』と強行する人が現れた場合、裁判をしない限りそれを止められなくなってしまうのではないか

齊藤博氏・松田政行氏ら、著作権問題を考える新組織を発足 | 日経 xTECH(クロステック)

これは、例えば「引用」であっても「私的利用」であっても、同じ可能性はある。
とうてい「引用」とは思えない事例を「引用だ」と思って強行する事例なんて、いくらでもある。特に、作家の方々が「引用」には該当しないケースであっても「引用」とおもってやってしまったケースは、新聞記事を検索すればいくらでも出てくるだろう。
逆に、著作権の及ぶ範囲でもないのに、「著作権侵害だ」と訴えて、それは著作権侵害ではない、と見なされた判例だってたくさんある。
例えば、「新聞記事の見出しは著作物だ」と訴えた裁判では、該当する新聞記事の見出しはすべてありふれた表現であり、著作権は発生しない、と判断されている。*1


もともと、著作権の発生には、審査とか登録などは必要は無く、「著作物」を創作した時点で発生するが、その表現が「著作物」であるか否かすらが確実ではない。著作権法では「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」と定められているが、「思想又は感情」を表現したものとか「創作的に」表現したとか言われても、どこまでが「思想又は感情」で、どこまでが「創作的」かなんて、明確な基準が法で定められているわけではない。これまで行われてきた裁判の判例の積み重ね、学説の積み重ねによって、基準がだんだんとはっきりとしてきているだけだし、それが「引用」に該当するか否かも判例によって明らかになってきている。

だから「フェアユース」への懸念・反対で「裁判」を持ち出すのは、為にする反対でしかないと思う。

*1:ただし、その裁判で、見出しの使用は民法における不法行為と見なされた。