「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」に期待します

「権利者」という人たちの一方的な主張で著作権の保護期間が延長されることに、そうとうな危機感を持っていましたが、このような動きが出てきたことを心から歓迎します。
昨日付のエントリでクリップした記事にも書かれているように、著作権について国民的な議論が必要だと思います。一部の「権利者」という人たちの一方的な主張、しかもその根拠が「国際レベル」という余りにも貧弱なものだけで、保護期間の延長問題が議論されるのでは、余りにもお粗末だと思います。
著作権については、誰もが権利者であると同時に誰もが利用者でもあるので、そのことを前提に国民的な議論がなされることを期待します。

議論をする上でのキーポイント

これまでにも書いたことがありますが、著作権について議論をする上で、以下の3点を念頭に置いてもらいたいと思います。


1.誰もが著作権者であると同時に、利用者であるということ
2.自分も当時者であるということ
3.自分が他者の著作権を侵害している可能性があるということ


これら3点は根は一緒で、1点目にあげたことに繋がります。
若干補足します。

誰もが著作権者であると同時に、利用者であるということ

いわゆる「権利者」という人たちも、他者の著作物を利用しないということはありません。
小説家は他の人の小説を読むでしょうし、音楽を聴いたり、映画を見たりするでしょう。
文献のコピーを取るかもしれません。音楽のCDをiPODに入れて聴くかもしれません。
「権利者」といえども「利用者」になることもあるのです。
逆に「利用者」という人たちも、文章を書くでしょうし、写真を撮ったり、絵を描いたりするかもしれません。
自分が書いた文章や撮った写真を他の人がコピーしたりするかもしれません。
そう言う場面では「権利者」なのです。
著作権の議論をする上で、「権利者」の立場に立つ人もいるでしょうし、「利用者」の立場に立つ人もいるでしょう。でも誰もが、ある場面では「権利者」であり、ある場面では「利用者」である。誰もがその両方の立場であるのです。そのことを認識した上で、「権利者」の立場や「利用者」の立場に立って欲しいと思います。

自分も当時者であるということ

学者や専門家の方に時々いますが、「自分は第3者だ」というスタンスで著作権の議論をする人がいます。
でも著作権に関しては「第3者」というのはあり得ないのです。
誰もが「権利者」であって「利用者」でもあると言うことは、誰もが当事者なのです。
学者や専門家であっても「第3者」ではなく「当事者」なのです。
例えば、著作権法についての文献を読むときに、コピーを取りませんか? そのコピーはどこでとりましたか? 権利制限の範囲内のコピーですか? 許諾は取りましたか?
また、自分が書いた論文がコピーされていませんか? 引用されていませんか?
このように、学者や専門家であっても、利用者であるし権利者であるのです。
自分のことを棚上げにした議論では意味がありません。学者や専門家であっても自分の問題として議論をしてもらいたいです。

自分が他者の著作権を侵害している可能性があるということ

誰もが利用者だということは、他者の著作権を利用する際に権利を侵害している可能性があるということです。
そんなことはない、私は他者の著作権を侵害したことはない、と言う人も多いかもしれませんが、本当に自信を持って言えますか? もしそう断言できるのであれば、著作権について相当鈍感だと思います。
コピーを取るときに、権利制限の範囲内ですべてやっていますか? 引用を行う時に、引用の要件をきちんと満たしていますか? 
私には断言できません。これまでに他者の著作権を侵害した可能性は大きいと思います。
著作権について議論をする上で、こういう観点は必要だと思います。


これから国民的な議論をしていく上で、以上の様な観点をもってやっていただきたいと思います。
なお、国民会議の呼びかけ人である福井健策弁護士の次の著書は、著作権について自分の問題として考えるためのヒントがたくさん書かれています。
是非ともご一読ください。

著作権とは何か―文化と創造のゆくえ (集英社新書)

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