青空文庫とペン電子文藝館

作家の秦恒平氏は、どうも青空文庫に対して誤解があるのではないだろうか?
2月22日付けの「生活と意見」に次のようにある。

* 読者から「青空文庫」を知っているかと、ながい、くわしいメールが届いた。多くのボランティアを「工作員」と呼んで著作権の切れた文筆家の作品を多数復元していることは、知っていた。それはそれで「著作権切れ」を機械的に利用したそれなりの事業だと思っていたが、それを「売り」出してもいることは知らなかった。やはり商売にし始めたか。それ自体は違法でも何でもない。パブリック・ドメイン(公共財)への敬愛だけではやはり済まないらしい、むりもないのか。

* 「青空文庫」の名前と存在はよく知っています。どういう仕組みでどう働いているかは、知ろうともしてきませんでした。「理想」があってというより、「著作権切れ」ということを、思い切り合法的に利用しているのであろうと想像していました。
「ペン電子文藝館」を起こしたとき、青空文庫から協力の申し出がありました。工作員の名前を明記してくれるなら作品を転用してもいいと。わたしはそれを事実上あえて頼みにしませんでした。表記やその他に、わたしの考え方と異なる点もありましたし、文庫と文藝館との「理想や性質の差」は、おいおいに歴然としてくると思っていましたから。
「ペン電子文藝館」は、著作権の切れた過去の作品を、大切なパブリック・ドメイン(公共財)と考え、また近代文学・文藝史の構築、先輩諸氏の名と作品とを時代による亡失や湮滅から守るという、「敬愛」の思いを常に持っています。著作権の切れている以外の人と作品にも日本ペンクラブとして遺族にお願いしたくさん寄付して頂いていますし、さらに現存の会員や非会員からも現代作品を寄せて頂いています。梅原猛さんなど、出版と同時に即作品を此処へも掲載して欲しいと寄託されたぐらいです。
 ここ百数十年、近代現代の文学・文藝の流れを、あらゆるジャンルを問わず一望にして行きたい。忘れてはならぬものは、思い起こして、此処に丁寧に記念植樹しておきたい。それが多くの文筆先輩達への、少なくもわたしの心から敬愛の表現なのです。少なくもわたしは、そういう気で、私生活をも此の文藝館の作業にこの数年、傾注してきたのです。
 おっしゃるようであるなら、青空文庫と「ペン電子文藝館」とは、ますますハッキリと「ちがう道」を歩んでいると言えますね。  秦

私はペンクラブの「ペン電子文藝館」の活動も評価しているが、この文を読んで、少々失望した。
青空文庫が、パブリックドメインを「商売」にしているというのは、完全に誤解でしょう。
例えば、ダイソー青空文庫のデータを利用して100円文庫を出しているが、青空文庫にはそれからの何等直接的な利益を得ていないはずだ。
パブリックドメインだから、誰もがどのように利用することもできるのだ。その点では青空文庫の意義は非常に大きい。現時点においては、ペンクラブの電子文藝館よりも青空文庫の方が大きな役割を果たしていると思う。
また、秦氏はペンクラブの電子文藝館が「敬愛」の思いを常に持っていると言うが、青空文庫も「敬愛」の思いは充分に持ち合わせていると私は思います。
というか、文藝家協会や秦氏だけが「敬愛」の思いを持っている、と考えているのであれば、それはおごりだろう。
秦氏は、三田氏らとは違って、作家を特権階級とは捉えていないと思っていたが、それは私の買いかぶりだったのだろうか?
まずは、青空文庫の提案をちゃんと読んで欲しいです。
秦氏は、

青空文庫と「ペン電子文藝館」とは、ますますハッキリと「ちがう道」を歩んでいると言えますね。

と言うが、確かにそうかもしれない。
ペンクラブの「電子文藝館」が自分達だけが近現代文学に対して「敬愛」の思いを持っているとして、作家が自分達を特権化しているのであれば、「青空文庫」とは相容れないだろう。
そもそも、日本ペンクラブの電子文藝館と青空文庫は競合するものではない。
青空文庫は多くのボランティアの手によって、著作権が切れた文学作品の電子テキスト化が幅広く行われている。
一方、日本ペンクラブの電子文藝館は、当然日本ペンクラブ会員の作品が中心になるためある程度限定されるが、著作権が切れていない作品についても電子テキスト化がなされ、それもパブリックドメインとして扱われている。
それぞれが特色を活かしていけば良いだけのことだと思うのだが、秦氏青空文庫のどこが気に入らないのだろうか?